本記事では、既存のルールに思考停止で従うのではなく、そのルールにはどんな意味があるのかという本質を見極めて判断行動してほしいという内容をお伝えします。
お店の駐車場を車で運転するとき、ウィンカーを出さない人がいます。その人たちの理屈は「だってここ、道路じゃないから」といいます。これがまさに、ルールで生きている人の考え方であり、個人的にはあまり好きではありません。
僕は、止まれの標識で止まれない人間です。「止まれの標識があるところでは、一時停止しなければいけない」これが法律であり、ルールです。止まったつもりでも、ほんの少しでもタイヤが回転して入れば、警察は容赦なく捕まえます。
ただ、なぜそこに標識を設置しようと思ったのかを考えていくと、きっと歩行者を守るためなのだと思います。人が横断する可能性があるので、車は一度止まらないと危険ですという意味を込めて、ルールが作られたのでしょう。
ものごとの本質とは
つまりこの本質は何かというと、「安全確認をしっかりしましょうね」ということなのだと思います。にもかかわらず、止まるくらいのギリギリの動きで、かつ絶対に歩行者はいないと安全確認できていたとしても、そのまま通過すると捕まります。
なぜなら「ルールだから」。極論ですが、安全かどうかなんて実際には関係なく、止まるかどうかが最重要視されていることになります。これは本質が失われていると感じてしまうのです。
駐車場でのウィンカーも同じで、後続車に安全を知らせることが本質ならば、駐車場かどうかは関係なく、「やるべきだから」という理屈で行動してほしいなと感じてしまいます。だって危ないでしょ?
法律やマナー、社内規則など。世の中にルールはたくさんあります。でも、皆さん本当に「ルールだから」で生きているでしょうか。例えば人を殴ることは、ルールだからしないですか?きっとそうではなく、自分でやるべきではないと判断しているからやらないのです。
つまり、「ルールだからやらない」のではなく、「やってはいけないことをルール化した」だけの話なのです。行動の根本はルールではなく、自分の意志であってしかるべきだと思っています。
“この会社では8時に出社し、5時に終わります”という社内ルールがあったとしましょう。ある日、寝坊して出社してくると、きっと怒られるでしょう。ルール違反だから。でも実はその日、大したやることがなくこっそりネットサーフィンを楽しんでいた。そんな人いますよね。
この場合、僕はいつもこう思います。「なんでこの人、会社に来たんだろう」と。だってやることもないのに、時間を消化しに来ているわけです。僕には、間違えているのがそのルールの方だと感じて仕方がないのです。
仕事をするために会社に来たのであって、会社に来たらたまたま仕事があったわけではないですよね。これでは本末転倒です。屁理屈のようになってしまいましたが、結局考えなければいけないことは「なぜそのルールが決められたのか」という部分です。
「ルールだから」以外の理屈で生きる
何十年も前に決められたルールが、今の時代に即したものかに疑問を持つ人はほとんどいません。なぜなら、ルールで生きているから。でもよく考えると、変えなければいけないのはルールの方である可能性を考えてみてほしいと思います。
『ルールだから。常識だから。今までもそうだったから。俺らの頃そうしていたから。』
それ以外の理由が見当たらないものに疑問を持ち、無意味なものを変えていく。おそらく働き方改革の第一歩は、ここから始まるのではないかと思います。
時代に合わせて変えていくための屁理屈が僕なら、古いルールを守るための屁理屈だってあるはずです。そこに流されていないかどうか。毎日のあなたの行動は、本当に意に即したものなのかどうか。考えてみましょう。
ルールだから行動するではなく。行動するためのルールを作る。今の時代にあってない、おかしなところは変えていきましょう。